この文章は、本家サイトに2014年に掲載して反響が大きかったものを、スマートフォンやタブレットで見やすいよう、文字のカラーなどを調整したものです。
2014/9/17
哀しき三重奏〜ウルトラセブン12話から日本が見える〜
小学校2年生か3年生だったかの話だが、当時仲のよかった友だちが本を処分するとのことで、「これあげるよ」と譲り受けたことがある。その中に、ウルトラ怪獣についての本が2冊あった。その本は残念ながら今、手元にないのだが、当時からウルトラマンが大好きだった私は、熱心に読み込んだ記憶がある。その中の、「ウルトラセブン」の項目に、不思議な文言が書いてあった。
「12話は欠番です。」
小学校2年生だった私は「欠番」の意味が分からず、その不思議な言葉に引っかかりを覚えた。その後、別の本の「ウルトラセブン」サブタイトルリストを見ると、なぜか11話の次が13話になっていた。「ああ、欠番ってこういうことか」と思った。もちろん「なぜウルトラセブン12話は欠番なのか?」という疑問はあったが、うっかり紛失した(なにしろ当時の私はよくものをなくす子どもだった)のだろう、程度の認識だった。
その後は「ウルトラセブンの12話」について、あまり意識せず生きてきた。「地獄先生ぬ〜べ〜」というマンガ(今度実写ドラマ化されるあれです)の単行本に「テレビの撮影中、怪獣の着ぐるみが燃えて俳優が亡くなり、その作品は欠番となった」というような文言がコラムにあって、「ああ、12話が欠番になったのはそれでか」と思った覚えがある。一応、「怪獣が出てくる作品の欠番」と言われて、「セブンのことだな」という意識はあったわけだ。ただ、この「俳優が亡くなった」というのは「地獄先生ぬ〜べ〜」が作り出した(と言われている)都市伝説で、ウルトラセブン12話の欠番について、撮影中の事故は全く関係がない。
高校1年生の頃、今も交流がある先生が授業でセブン12話の話をちょろっとしたはずなのだが、授業中居眠りをしていてほとんど聞いていなかった。あとで友人に聞いたら「なんか差別がどうのとか」という話をされた。流石に居眠りをしていた手前「何で欠番なんですか」なんて聞きに行けなかったので、そのときはそのままだった。
ところが高校2年生になって、インターネットが手に入ると状況は全く変わった。ウルトラセブン12話がなぜ欠番なのか、簡単に調べることができるようになった。当時から「712」というサイトがあって、そこで初めて理由を知った。今回の原稿は、前述の712と、「ひばく星人*竭闔送ソ集刊行委員会」を参考に取材を進めた。
欠番の理由は、こういうことだった。
1970年、中学生の女の子が小学館の学習雑誌に「ひばく星人」と書かれたウルトラ怪獣カードを見つけた。それを父親に「これって被爆者のこと?」と尋ねた。その父親は、東京都原爆被害者団体協議会の委員であり、出版社に抗議の手紙を送り、前後してこの事を知った他の団体も、制作プロダクション、放送局、スペル星人を掲載した出版社やレコード会社へ抗議を行ない、一気に問題化していった。(712より引用)
私はそこで初めて「スペル星人」の存在や、欠番への経緯を知ったと同時に、被爆者団体への憤りを感じた。「この父親も余計なことをしやがって」と思った。ちびくろサンボを封印させようとした「黒人差別をなくす会」にも似た憤りである。許せなかった。しかし、そのときは腹が立っただけで、特にアクションをすることもなかった。
それから15年の月日が流れた。ウルトラセブン12話を巡る状況もかなり変わった。まず、最初に抗議をした被爆者団体の父親とは、ジャーナリストの中島竜美(本名、中島龍興)氏(2008年に物故)であることが明らかになっている。動画サイトの登場も状況を変えている。ちょっと検索すれば簡単に見られるようになった。とはいえ、封印作品であることに変わりはない。この問題について、封印した円谷プロダクションは一切のコメントを拒んでいる。
さて、この「ウルトラセブン」第12話「遊星より愛をこめて」は、すでにさんざん語り尽くされ、扱った書籍もいくつか出ているのであるが、特撮オタク的な話に力点が置かれるか、表現者の自主規制に力点が置かれるか、どちらかの面があり、いずれ自分でも何かまとめたいという意識があった。
まず前段として、特撮オタク的な側面からセブン12話について述べておく。特撮が好きな人に、知らない人が聞くといやがられる質問がある。いろいろいやがられる質問があるらしいが、「ウルトラセブン12話って何で欠番なの?」「怪奇大作戦24話って何で欠番なの?」「バイオマンのイエローフォーは何で死んだの?」の三つだとされている。断っておくが、封印作品は全部聞くのがダメというわけではない。私自身、この前「獣人雪男(※)が見たいんだけど、DVD持ってないですか」と平然と聞いてしまうという特撮オタク失格なポカをやらかしている。
(※「ノストラダムスの大予言」同様、封印作品である)
「ウルトラセブン」12話がここまで特別視されるには、いろいろ事情がある。まず、「ウルトラセブン」は、日本を代表する特撮「ウルトラシリーズ」の1本であり、またその中の最高傑作と名高い作品だからだ。これがもしも、「鉄人タイガーセブン」の1本だったらどうなのか。あるいは「UFO大戦争 戦え!レッドタイガー」の1本だったらどうなのか。「なんか欠番が1本あるらしいよ」程度で話が進むのである。(両作品のファンの方ごめんなさい)だいたい、特撮を知らない人に「タイガーセブン」「レッドタイガー」と言っても通じないが、「ウルトラセブン」は通じる。中には「ウルトラマンセブン」なんて言ってしまう人もいるのだが、「ウルトラセブン」は多くの人に知られている。
ウルトラシリーズを詳しく知らない人にとって「ウルトラセブン」は、たくさん作られた「ウルトラマンシリーズ」の1本でしかないが、詳しい人にとって「ウルトラセブン」は最高傑作とあがめられている。放送終了から45年以上が経過しているが、登場する怪獣や宇宙人はもちろん、メカニック、ストーリーについてのムックが大量に出ている。欠番でも何でもないのにDVDすら出ていない「ウルトラマンパワード」(※)とはえらい違いである。
(※どうでもよくないけどウルトラマングレートのDVDを早く出してください)
また、製作スタッフも大きい。12話「遊星より愛をこめて」は、脚本が佐々木守氏、監督が実相寺昭雄氏(いずれも故人)なのである。佐々木守脚本で実相寺昭雄監督といえば特撮オタクには「怪奇大作戦」や「シルバー仮面」が真っ先に思い浮かぶほど黄金コンビで知られる。「セブン」の前作「ウルトラマン」では、実相寺監督作品だけを再編集した「実相寺昭雄監督作品ウルトラマン」として劇場公開までされている。そういえば、ずいぶん前の話だが私自身、「ウルトラマンのテレビシリーズで実相寺監督作品だけ借りる」なんてことをしたし、「ウルトラマンマックス」で実相寺監督が登板するとなった際には、その日は早起きしてしっかり見た。特撮好きにとって、実相寺昭雄監督作品というのは、いわば聖なる領域なのである。
ゲストキャストも力が入れられており、前作「ウルトラマン」のヒロインを務めた桜井浩子氏が、ひし美ゆり子氏の友人役で出演している。ウルトラヒロインは、それだけでムックが出るほど特別扱いされる傾向があり、12話での共演は貴重であるとの認識がある。
「ウルトラシリーズ」も「ウルトラセブン」も知らない人にとっては「なんのこっちゃ?」の話であるが、とにかくこの「ウルトラセブン」12話は、マニアにとって「見たくなる」要素がそろっていたと言えよう。それから、これは12話問題で誰も指摘しないので指摘しておくが、男性のオタクは「全話コンプリート」にこだわる傾向がある。アニメやドラマ作品でも、「全話そろっている」ことが前提になっていて、DVDも全話BOXで買う人が多い。全話そろっていても見る話は決まっているはずなのだが、メンタリティとして「全話じゃないとだめ」(※)なのである。
(※補足しておくと女性のオタクは気に入ったエピソードだけあればいいので、DVDもバラで買う。どうも女性は男のコレクション癖やコンプリート狙いを理解できないらしく、オタクが結婚してもめるのは、夫のコレクションの扱いとコンプリート癖である。)
ただ、この「ウルトラセブン」12話については、それほど評価が高い作品とは言えない。この問題について最も詳しく取り上げている安藤健二氏「封印作品の謎」で安藤氏が見た際には「あまり面白くないなあ」と感想を述べているし、視聴した人からも「悪くはない」「シリーズものとして見た場合、必要な話」という肯定的な意見がある一方で、「凡作」「つまらない」という意見が見られる。かくいう私はこれまで見てこなかったのだが、今回この原稿を書くにあたって、動画サイトで見てみた。……うーん、そんなに面白くない。つまらなくはないが、手放しで褒めるようなものではない。実相寺監督らしい絵はあるし、シナリオも全くだめなわけではないが、「狙われた街」や「ノンマルトの使者」の後の重い感動や、「第四惑星の悪夢」のような「これはすごい物を見てしまった」感はない。特撮パートもウルトラホークが3台とも登場することを除けばいまひとつだし、肝心のスペル星人もウルトラ怪獣特有の神々しさみたいな物がない。知らない人に「こいつ、奥多摩の造成地でゴッドマンと殴り合ってたんだぜ」と言ったって通じるデザインセンスである。
これは、実相寺昭雄監督が「宇宙人の体にケロイドを付けろ」とデザインの成田亨氏に発注したところ、成田氏は「そういうデザインはやりたくない」と渋々で、モチベーションが低かったからだとされている。これをお読みの方は、やる気になってやった仕事と、やる気がなくてやった仕事の間には、成果に目に見える差が出ること(※)をご存じの方もいるだろうが、成田氏にとって「やっつけ仕事」だったことは想像に難くない。
(※そら仕事なんだからなんでも一定のクオリティは必要なのだが、100点の仕事と80点の仕事の間にある壁は、20点とは思えない開きがある。)
好意的評価の人も、名作とされるエピソードと比較すれば「そこまでではない」と言うはずで、結局の所飛び抜けた名作ではなく、欠番になっていなければそこまで話題にならなかったエピソードであると思う。
したがって、脚本と監督、出演者が高く評価されているものの、作品そのものはあまり高く評価されていない。ここら辺、岸田森氏のきちがい演技が高く評価されている「怪奇大作戦」24話「狂鬼人間」とは対照的である。
ただ、前述の「狂鬼人間」と違って、「遊星より愛をこめて」は、欠番に至る経緯がはっきりしている。また、欠番理由がオンリーワンである。テレビドラマにおける欠番作品は珍しくなく、「特捜最前線」では「トルコ嬢のしあわせ芝居!」が欠番(トルコという名前がまずかった)だし、「太陽にほえろ!」も、諸事情でソフト化の際欠番になったエピソードがある。最近では「相棒」も1本欠番があるし、特撮作品では「クレクレタコラ」が原盤紛失や差別的表現(特に「気違い真似して気が触れたの巻」)で欠番になっている。欠番理由はだいたい差別語(きちがい、おし、めくら、つんぼ、トルコなど現在では不適当とされる文言)なのだが、「遊星より愛をこめて」は、被爆者団体の抗議で欠番となった唯一の特撮ヒーロー作品なのである。
この欠番の経緯がはっきりしていることは、ファンにとって幸せであり、不幸である。欠番の理由は、普通、公式発表されない。だいたい、「あのシーンがまずかったんだろうな」程度の推測はできるが、それもあくまでも推測でしかない。ここら辺「遊星より愛をこめて」は、はっきりしている。それ故に「何でダメなんだ」「おかしい」という釈然としない思いや、やりきれない感覚が感じられるのである。
少し前に「はだしのゲン」を閲覧中止にするという動きに対し、被爆者団体が撤回を申し入れたことがあった。その時、インターネットの一部で「はだしのゲンはよくて、ウルトラセブンはダメなんですね」「はだしのゲンは守って、ウルトラセブンを攻撃するサヨクは氏んでいいよ」みたいな発言を見た。この「遊星より愛をこめて」欠番に被爆者団体が関わっていることは、近年の保守的な空気の高まりに伴い「被爆者団体はサヨクだからあいつらの抗議は見当違い」のような見解を感じる人もいるようだ。被爆者団体や被爆者にとって「ノストラダムスの大予言」を欠番にしたことは責められないのに、「ウルトラセブン」だけはここまで攻撃されることにやりきれない思いを感じる人もいるだろう。
欠番についての経緯は「封印作品の謎」に詳しく出てくる。要約して引用すると、こういう流れだ。
「小学二年生」の付録「かいじゅうけっせんカード」のスペル星人の裏に、「ひばくせいじん」と書かれたカードが出回る。
↓
中島竜美氏かその家族、息子に「小学二年生」を買い与える。
↓
中島竜美氏の娘、中島ゆかり氏、弟のカードを見て「ひばくせいじん」の言葉を見つける。
↓
「お父さん、これって被爆者のこと?」カードを見た中島竜美氏激おこぷんぷん丸になる。
↓
中島竜美氏が娘の中島ゆかり氏の指摘から小学館に抗議文を送る。
↓
中島氏が抗議文を送ったことを「原爆文献を読む会」のメンバーに話す。
↓
原爆文献を読む会のメンバーが朝日新聞の記者に話す。
↓
朝日新聞が「被爆者の怪獣マンガ」という記事を出して火を付ける。
1970年10月10日
(画像クリックで拡大、以下同じ)
朝日新聞、てめぇぇぇぇぇぇぇぇ!!
そう、被爆者団体の抗議以前に、火を付けた明らかな放火犯がいるのだ。朝日新聞である。「ウルトラセブン」を見れば、被爆者を怪獣扱いしていないことなどすぐに分かるのだが、ろくすっぽ取材せず、被爆者団体から聞いた噂話だけで記事を書き、問題に火を付けたのは朝日新聞なのだ。流石は戦前は戦争を煽って日本を戦争に突入させて国を滅ぼしかけ、戦後は吉田茂内閣をさんざんこき下ろしたのに90年代になると「吉田茂みたいな首相がほしい」と手のひらをひっくり返し、サンゴに傷を付け、河野さんを犯人扱いし、従軍慰安婦問題をややこしくさせ、「アベする」という流行語を捏造し、脳内妄想の吉田調書を掲載したアサヒる新聞だ。
この原稿をお読みの賢明な読者諸君は朝日新聞のスタンスなど今更だと思うが、だがちょっと待ってほしい、朝日新聞はその後も「被爆者の味方」とばかりに、ウルトラセブンを徹底攻撃する。
また、朝日新聞が火を付けると、油を注ぐように便乗して弱者の味方を気取り、弱いものいじめをする新聞社がもう1社ある。そう、みなさんお分かりの通り、毎日変態新聞だ。ここも朝日新聞に負けず劣らず、徹底的なウルトラセブン攻撃キャンペーンである。
1970年10月13日
どこが被爆者を怪人視してんのよ!
作品見てねーだろ!
1970年10月15日
1970年10月17日
こんな新聞が世間に誤った見方を植付ける。
1970年10月18日(東京版)
平和団体ってインチキだね。
こんなの見せられてる子どもたちがかわいそうだネ。
1970年12月3日
「被爆者を怪獣扱いしている」のが全くの誤解であることは今更言うまでもない。そのことは円谷プロダクションも、小学館も主張している。しかし、当然自称弱者の味方の朝日新聞と毎日新聞がそんな主張を聞き入れるわけがない。小学館はついに「元はと言えば新聞がややこしくしたんだよ」と、今となっては至極当たり前の主張をした。これがどのように報道されたかというと……。
当然、自分たちに責任は全くないっていうか、慰安婦問題でも「朝日新聞は被害者だ!」「我々もだまされた!」と責任転嫁が十八番の新聞社、他の人々が責任転嫁することは絶対に許されない。当然被爆者団体を焚き付け、再び円谷プロを巻き込んだ社会的リンチに追い込み……
さすが大正義マスメディア様!ちょっとでも新聞を責める奴らは責任転嫁なんだ!新聞社は絶対に間違えないんだ!ザマーミロ!!
こうして、「ウルトラセブン」12話「遊星より愛をこめて」は、闇に葬られたのであった………。
なお、この後、光文社「FLASH」誌(2005年11月22日号)で12話特集が取り上げられた際、当時小学館のスタッフだった方によれば「その後マスメディアから報道が行き過ぎたという謝罪があったが、朝日新聞は謝らなかった」とのことだった。朝日の辞書に「反省」と「謝罪」がないことは、文春と新潮が紹介しているが、昔からだったのである。
それから30年以上の時が流れた2003年……朝日新聞にこんな記事が載った。
自分たちが放火して家一軒丸焼けに追い込みながら、「何が原因で火事が起きたのか」とドヤ顔で解説しているようなものである。当然、この記事はネットの中で「これぞ朝日新聞クオリティ」と大絶賛されたものの、当時はインターネット人口が少なく、今となってはあまりおぼえている人が少ない記事である。
その後、ウルトラセブン関係の記事は安藤健二氏が書いた「封印作品の謎」(太田出版)まで、途切れることとなる。この理由は簡単で、「ウルトラマン」関係の本を出す場合、円谷プロダクションに版権許諾を得なければいけない。ところが、「遊星より愛をこめて」やスペル星人について言及した場合、当然円谷プロダクションは許諾しない。円谷に関わりない特撮ムックを出す出版社にせよ、特撮ライターにせよ、円谷プロダクションと対立するのは避けたい。アンタッチャブルな存在になっていくのである。円谷プロダクションは、「ウルトラマン」シリーズをはじめ、「怪奇大作戦」「ファイヤーマン」「ミラーマン」「ジャンボーグA」「マイティジャック」など、特撮の歴史に名だたる作品を多数残している。また、東宝とも関わりが深く、円谷プロダクションの始祖・円谷英二氏といえば「ゴジラ」の特技監督として世界的な存在である。特撮ムックで「サンダーマスクのマスターフィルムはどこにあるのか」と論評するのはOKでも、「ウルトラセブン12話はデジタルリマスターしたのか」という言及はタブーなのである。
したがって、現在では、「封印作品の謎」と、光文社「FLASH」誌が最後の特集ということになる。これは致し方ない部分があって、その特集の後、抗議した中島竜美氏、脚本の佐々木守氏、監督の実相寺昭雄氏が相次いで他界しているのだ。当事者のコメントを取るのがジャーナリズムの基本だから、当事者がいない以上記事にすることは難しい。なにしろ円谷プロダクションが一切のコメントを拒んでいるのだ。円谷プロダクションと提携している森次晃嗣氏は、当然12話について一切ノーコメントである。
FLASH誌では、興味深い記事がある。それは、中島竜美氏と佐々木守氏の対談である。中島竜美氏は12話について、スペル星人の造形など一部の問題があったことを指摘した上で、「作品を見ないで抗議したことは失敗だった。」「表現の自由を潰してしまったという思いがある。」と述べている。また、「私は加害者第一号として、ウルトラセブンのファンに糾弾された。」とも述べており、中島竜美氏のその後の活動において、「ウルトラセブン12話問題」の存在が影を落としていた可能性がある。(引用画像参照 E F G)
このFLASH誌、読めば読むほど味わい深い記事である。被爆者団体の抗議について「机を叩くような激しい抗議だった」との証言が載っている。確かに、火を付けたのは朝日新聞で、油を注いだのは毎日新聞だが、その火を持って暴れ回ったのは被爆者団体である。
この記事を読みながら、森達也氏の著書「放送禁止歌」(光文社知恵の森文庫)を思い出した。「放送禁止歌」は、今、手元にないのだが、確か後半は同和地区(被差別部落)についてのリポートで、「1970年代、部落解放同盟の激しい抗議にメディア側が萎縮したことは事実です」と酔った森さんがくだを巻いたところ、部落解放同盟の人は「そうだけれど、誰も反論してこなかった」と述べている。実際の所、言い返せば火に油だから抗議が来たらさっさと引っ込めたことは想像できる。森達也氏はそういう「抗議が来たら」あるいは「抗議が来そうなこと」を自主規制し、ふたをしてしまうメディアの体質を「思考停止」として批判している。
「ウルトラセブン」12話問題に関して言えば、確かに、「ひばくせいじん」というカードに問題はあった。その設定を作ったのは大伴昌司氏だとされているが、大伴氏やそれをOKした円谷プロ(たぶんOKしたというより、大伴氏に丸投げでろくすっぽチェックしてなかったのだろう)、小学館の人権感覚に問題がなかったとは思えない。だが、問題にすべきはその人権感覚であり、「被爆者を怪人扱いした」という朝日新聞と毎日新聞の記事は全くの誤報だった。その誤報にいきり立った被爆者団体が猛烈に抗議して、圧力団体と化し、円谷プロダクションは自主規制した……。「作り手」「メディア」「抗議者」この三者があまりにも不幸な三重奏を奏でているのだ。
ここで多くの人は「新聞がおもしろおかしく報道しなければ」と思ったに違いない。私自身、新聞の責任はこの問題について、決して小さくないと考えている。正直、腹が立った。何度も記事を読み直してみる。1970年当時、新聞記事に執筆した記者の名前は出ていない。誰が書いたかも分からない。慰安婦問題の記事を書いた植村隆氏のような、追及はできそうもない……。
ふと、読みながらざらざらした感覚に襲われた。なんだろう、この違和感は。
「被爆者がかわいそうだ」
「被爆者って、かわいそうな人たちなんだネ」
「被爆者をいじめる怪獣まんがなんて許せない」
森達也氏は言う。「人は善意で動く」と。自らの正義を確信して動くと。記者は間違いなく、被爆者の味方として、弱者の味方として記事を書いている。「被爆者がかわいそうだ」という言葉を隠れ蓑にして。私はそれを口の中で反芻しながら、違和感を消せずにいた。
……被爆者はかわいそうなのか?
どうしても分からない。これは、被爆者団体に取材をするしかない。
インターネットで被爆者団体を調べ、片っ端からメールを送った。
突然のメールを失礼いたします。私は,名古屋市に住む(本名)と申します。ウェブを中心にコラムを執筆しており,今回執筆している原稿に関連し,取材をお願いしたくメールいたしました。
<取材主旨>
日本を代表する特撮テレビドラマ・シリーズである「ウルトラマン」シリーズ。その1作,『ウルトラセブン』第12話「遊星より愛をこめて」は,現在公式に欠番とされ,再放送やDVDでの視聴ができない状況です。この欠番については,1970年,小学館の学習雑誌に登場する宇宙人カードに「ひばく星人」と記されており,「原爆文献を読む会」の中島竜美氏(故人)が抗議書を小学2年生に送ったところ,回答を前に朝日新聞が報道し,その記事をきっかけに被爆者団体が抗議したことが原因であるとされております。その後,12話という作品そのものに差別的内容がなかったこと,当初の新聞報道に誤りがあったこと,被爆者団体の抗議が大変苛烈なものであったことなどが現在指摘されております。
さて,今回私は「ウルトラセブンから日本が見える(仮題)」と題し,表現の自由と抗議,そして欠番と差別問題という一連の流れについて,原稿を執筆しております。この「ウルトラセブン」12話については,およそ10年前,安藤健二氏が著書『封印作品の謎』(太田出版)において,複数の被爆者団体に取材を試みています。しかし,残念ながらいずれの団体も取材を拒む姿勢を見せております。この動きに対し,ネット上では被爆者団体を揶揄したり,軽んじたりする物言いが見られます。作品が封印されたことはもちろん残念なことですが,それによって被爆者団体が悪者にされることもまた,残念なことであると考えます。来年は広島・長崎への原爆投下から70年という節目の年であり,若い世代の「右傾化」や,「被ばくの記憶の風化」といった問題について,考えるべき時が来ているように感じます。前述の通り,ウルトラセブンだけでなく,被爆者の問題についても取材させていただきたく,メールさせていただきました。
「ウルトラセブン」12話問題及び,被爆者差別の過去と現在について,下記質問にお答えしていただけたら幸いです。どうぞよろしく願いいたします。
<質問>
質問1
「ウルトラセブン」12話「遊星より愛をこめて」欠番について,欠番に至る過程に被爆者団体の抗議が関わっている事実を承知していますか?また,貴団体が実際に抗議した記録はありますか?抗議について記録が残っていれば教えてください。
質問2
「ウルトラセブン」12話の作品そのものには差別的要素がないことがその後の調査で明らかになっており,「被ばく者団体はこちらの言い分を聞いてくれなかった」「机をたたくような激しい抗議だった」という証言も明らかになっております。今後,貴団体として「ウルトラセブン」を制作した円谷プロダクションに対し,抗議を撤回したり,12話の公開を働きかけたりすることを考えていますか?お答えください。
質問3
1970年当時の抗議について,被爆者団体の抗議が円谷プロダクションや小学館を委縮させ,抗議を恐れるあまり過剰な自主規制に踏み切らされた部分が指摘されています。このような形は,結果的に「被ばく者について論評する(触れる)ことは抗議を招く」という表現者側の強すぎる自粛を呼び,いわゆるタブーのような形に追い込まれ,肝心の被爆者差別の問題が置き去りにされているように感じます。このような抗議方法に問題はなかったか,現在ではどのように考えるのか教えてください。
質問4
1970年当時,被爆者の多くはちょうど社会に出る(あるいは出た)時期であり,偏見や差別に苦しんでいたと推測されます。したがって,円谷プロダクションや小学館に対して,激しい抗議になったことも致し方ない部分があると考えます。1970年当時,被爆者差別にはどのようなものがあったのでしょうか?また,2014年現在,被爆者差別はどのような現状でしょうか?当時の現状と,現在の課題を教えてください。
質問5
1970年当時の新聞報道を検証すると,全体的に「被ばく者がかわいそう」的な論調が目立つように感じます。確かに,戦争に巻き込まれ,望まぬまま原爆に被災した被爆者の状況は気の毒であり,大変な状況であったと考えます。
しかし,「被ばく者はかわいそう」的な論調に,何か違和感を感じることも確かです。果たして,被爆者は「かわいそう」な存在なのでしょうか?また,「被ばく者はかわいそうな存在」のような見方についてどのようにお考えでしょうか?お答えください。
私の言いたいことは、主旨と質問の通りだ。「ウルトラセブン」12話問題にかこつけて、「被爆者はかわいそう」的な善意について、被爆者団体の考えを聞きたかった。はっきり言わせてもらえれば、「ウルトラセブン」12話については、もうどうでもよかった。この問題は、さんざん議論され尽くしていたことだ。改めて自分で調べてみて、封印までの経緯を調べるに、「新聞」「被爆者団体」「円谷プロダクション」が哀しく絡み合っていた。だが、どうしても分からない封印のキーワードがあった。それが、「かわいそう」なのだ。「被爆者がかわいそう」という、この「かわいそう」という善意と言葉の一人歩きが、ウルトラセブン12話を封印させたのだ。だが、「かわいそう」という見方を、被爆者団体は望んでいるのか。それが被爆者団体の望みなのか。どうしても知りたかった。
メールを送ってしばらく経った。被団協本部と東友会からはメールの返事があった。東友会は、「たいへん申し訳ありません。1970年当時、東京都原爆被害者団体協議会の役員としてウルトラマンセブン第12話の問題にかかわったものは、全て他界しております。このため、現在、この問題についてコメントできる者はおりませんので、ご了解をお願い申し上げます。」(原文ママ)とのみ、返答があった。「かわいそう」云々は一切触れられていなかった。東友会は、1970年の問題当時、中島竜美氏の「原爆文献を読む会」と並んで、新聞で最も激しく小学館を攻撃するコメントを出していた団体だ。「封印作品の謎」でも、「当時の抗議は今も有効」という、過去の過ちに対する一切の省みを拒絶し、左翼の無謬をこれでもかと信じている節があった。だから、たぶん、コメントしないだろうと思っていた。案の定である。
原水禁、原水協はじめ、多くの被爆者団体はメールに対する返信すらなかった。届いているはずだが、山羊に食わせてしまったのか、それとも迷惑メールに振り分けられたのか、あるいはメールの使い方を知らないのか、正直分からない。こちらに取材する自由があるのと同じく、あちらには取材を無視したり、拒否したりする自由がある。取材に返答がなかったことは残念だが、致し方ないことだ。本音を言わせてもらえれば、被爆者団体は「過去の過ちを直視しろ!」と主張しているのに、「誤った報道を元に苛烈な抗議をした、あなたがたの抗議方法に問題はなかったのですか?」という過去の過ちを質した私に「あーあーあーあーあー、聞こえなーいー」という態度で、はっきり言って言行一致を感じないけれど、そもそもどこの馬の骨とも分からぬ自称ライターが突然メールで取材依頼という胡散臭さに敬遠したのかもしれない。それに、「封印作品の謎」でも、ほとんどの被爆者団体は「ウルトラセブン」12話について、取材を拒否している。取材に応じてもらえないことは、覚悟の上だった。
被団協は、「即答できないので、協議の上、返答いたします」とメールの返事があった。返事はそれから3週間経っても届かなかった。しびれを切らした私は、被団協に電話をかけた。
被団協の担当者は、誠意をもって答えてくれた。回答が遅れた理由は、当時の抗議文が残っていないかと、倉庫の中を調べていて、まだ見つかっていないからという理由だった。わざわざ倉庫の中を調べさせてしまうような手間を取らせてしまったことに、申し訳なく感じた。
「抗議をしたという記録はあるんです。ただ、当時の役員は皆、亡くなっております。」
予想通りだった。今回の取材に関して言えば、「今更」だし、遅すぎたことは分かっている。それよりも聞きたかったのは、「被爆者はかわいそうなのか」ということだった。取材を進めてきた中で、これがどうしても分からなかった。それを伝えた。
「子ども向けに、被爆者がかわいそうだからという物言いはあったかもしれませんが、被団協として、被爆者がかわいそうだという物言いをしてきたつもりはないし、むしろ被爆者はかわいそうだなんて、思ってほしくないと思って活動してきました。」
担当者は、きっぱりとした口調で言い切った。被爆者はかわいそうな存在ではない。それは違う。それが被団協の認識だった。
もちろん、かつて、被爆者に対する差別や偏見は大きく存在したし、「形を変えて今も残っている」という。
被団協は、誠意をもって答えてくれたと思う。感謝している。実は、この原稿はメールを送った時点で「だけど返事は一通もなかった」という続きにするはずで、いわば免罪符のような、アリバイ作りで取材したようなものなのだ。だから倉庫の中まで探してもらえたことは感謝しているし、電話でいきなりぶしつけな質問をしてきた、どこの馬の骨とも分からない自称フリーライターに誠実に答えてもらったことは感謝しても仕切れない。
一方で、他の団体に関しては、残念ながらがっかりしている。結局、平和団体なんてそんなものなのかと、正直、失望している。平和であること、世界の非核化は確かに理想として正しい。掲げている理想が正しいのだから、平和団体のアクションは全て正しい。そういう発想で行動するから、支持を失うのだ。掲げる理想の正しさと、そのために行う行動の正しさは、必ずしも一致しないのだ。そんなものが一致してしまったら、要人へのテロだって正当化されてしまう。その指摘を柔軟に受け入れられないがゆえに、今の社会状況があることを理解できないのだなと、かなりがっかりした。社会が右傾化しているのではない。この国が集団化を加速させる中で、左派が社会から信頼を失ったのだ。味方を増やすチャンスはいくらでもあったのだ。だが、自分たちの理想が正しいという安心感から、自分たちを省みず、不勉強のままで良しとしたことが、今の社会状況を生んだのだ。「私たちの理想は正しい。だから私たちは正しい」という思考停止したロジックに、はまりこんでしまったのだ。脳味噌がお花畑とは、こういうことを言うのだ。
確かに、望まぬまま核爆弾の爆発に巻き込まれ、戦後心ない差別や偏見に苦しめられてきた被爆者の苦労は、想像しても想像できない。今、福島県で似たようなことが起きていると聞いているが、それよりももっと露骨で、悪質で、心に傷の残る歴史があったのだろう。だが、それを「かわいそう」という一言で表現するマスメディアと社会そのものが、差別構造を包含しているのだ。なぜなら、「かわいそう」というものの見方には、前提として「私はかわいそうじゃない」という優越感があり、「かわいそうな人々」は一段下に見ている、見下ろす感覚があるのだ。「被爆者はかわいそうだネ」などと報道した朝日新聞や、毎日新聞の記者は、被爆者差別に荷担したと言っても過言ではないと思う。被爆者も、大変だけれど、同じ人間であり、一生懸命生きていて、ともに社会を生きる仲間なのだ。その仲間が不愉快に思っている作品「ウルトラセブン」について、社会全体で考え、よりよい相互理解を広めていくべきだ、そういう報道は調べてきた中で一つもない。
「かわいそうだ」という報道。「私たちは傷ついた」という反論を許さない抗議。「申し訳ない、欠番にします」と、言われるままに自主規制した制作者。そして、見たい作品を奪われた私たち。我々にとって、こんな哀しい三重奏は聴きたくなかった。この問題で、幸せになった人は誰一人いないのだ。(強いて言えばテキトーな捏造記事を書いて高い給料をもらった朝日新聞と毎日新聞の記者が勝ち組に所属しているが、彼らがこの記事を書いたことで幸せな気持ちになったかどうか、今となっては確かめる術はない。)
そして、激しい抗議による欠番によって、被爆者差別はなくなったのか。答えは、否、である。むしろ、激しい抗議に「これはまずい」「被爆者について触れると抗議される」「じゃあもっと差し障りのないものにしようか」と、過剰な自主規制が始まった。作り手の思考停止の始まりだった。この「被爆者」を別の言葉に置き換えれば、同じ話を私たちは繰り返している。「同和地区」「皇室」「宗教」「障害者」「在日コリアン」「アイヌ」「沖縄」…………………。
だが、自主規制して、触れないようにして、差別や問題の根本は解決したのだろうか。むしろ、腫れ物に触るような、「アンタッチャブル」「タブー」という、作り上げられた危険なイメージから、一部の好事家によってアンダーグラウンドでオモチャにされ(※)、社会的には無知で無関心な人々を増やし、結果当事者の心は一切救われないまま時が経っているだけではないのか。
※このオモチャにしてる好事家には、ネットのコラムなら円谷プロの規制がかからないから好き勝手書けるぜ!とばかりにこんな長いコラム書いている私も含まれることは言うまでもない。
終戦から69年が経過した。来年は戦後70年。つまり、70歳未満の被爆者は(胎内被曝した人を除いて)ほとんどいなくなると言っていい。そのうち、ウルトラセブン12話問題について説明するとき、アインシュタインの原子力理論とマンハッタン計画から説明しなければならなくなるときが必ず来る。30年後までには、被爆者のほとんどは鬼籍に入ってしまう。つまり、被爆者団体はなくなる。今ですら被爆者団体の存続が難しくなっているのに、30年後まで、いったいどれだけの被爆者団体が残るというのだろう。つまり、抗議した人々、配慮すべき人々はいなくなる。それでも「ウルトラセブン」12話は公開されないとしたら、いったい誰のための自主規制なのだろう。
「もう誰も抗議しないけど、その昔抗議されて封印して、それっきり欠番です。」
「抗議する人がいないのなら公開したら?」
「いや、欠番にすると約束したから欠番です。」
「その約束した人達は?」
「みんな亡くなりました。」
「じゃあ公開できるんじゃない?」
「でも、永久にと約束したから欠番です。」
「約束した人が誰もいないのに、その約束は有効なの?」
「………………………………………。」
こんな禅問答のような話が、30年後、ウルトラセブンのファンの間で交わされるのだ。ばかばかしくて涙も出ない。
来年、被爆70年の節目になることを被団協に指摘した。向こう10年で、被爆者の大半が亡くなること、そして「爆心地の記憶」は間違いなく消えることを懸念していると伝えた。
「その通りです。正直、危機感をもっています。」
担当者は、強い口調で言った。一部の被爆者団体では、被爆者の高齢化に伴い、活動ができなくなった団体もあるらしい。
「かつて、被爆者という存在があった、という過去形で語られるのが、最も望まない未来ではないのか、と思いますが?」
「そうです。絶対に忘れてほしくない。そのために、被団協は活動しているのです。」
そりゃそうだろう。全員鬼籍に入りました。もうこの世には存在しません。忘れてもいいのです。当事者として、そんな訳にはいかないだろう。ないがしろにされている、軽んじられていると思うから、あそこまで抗議してきたわけで、世の中全員が忘れてしまったら、なんのための活動か、全く分からない。
「ウルトラセブン解禁に向けて」なんて野暮なことは聞かなかった。どうせ被団協が円谷プロに働きかけたところで、バンダイの傘下に入って事なかれ主義を第一にしている円谷プロダクション(という看板を背負った著作権管理団体)が、解禁に向けて動き出すわけがない。
私なりに調べてきた結論をはっきり言う。当初誤った報道をした新聞、反論させない苛烈な抗議をした被爆者団体、自主規制をしたまま知らんぷりの円谷プロダクション。三者全てに、大きな責任が存在している。
まず、新聞は第一報を誤報した。「被爆者を怪獣扱いした」というセンセーショナルな見出しで、被爆者団体と世間を煽った。この第一報が冷静なものであれば、この問題は違った結末を迎えたはずだ。そして、その第一報は、自称ジャーナリストの素晴らしい取材に基づいていた。松本サリン事件の翌日、「近くに住んでる会社員の家に化学薬品があった。こいつが犯人だ。」という報道だってそうだ。河野さんの家にあった薬品をどんなに混合したところでサリンができないことはちょっと調べればすぐに分かった話だ。ろくに調べもしないで、「薬品があった」だけで、どんな薬品かも調べず、大喜びで記事にする。1970年から現在まで、朝日新聞社をはじめ、テキトーなことを書いてる大手マスコミジャーナリストのスタンスは厳しく糾弾されていい。朝日新聞は、慰安婦問題で謝罪する前に(だって実際慰安婦は存在したわけで…とか書くと話がややこしくなるから書かない)、ウルトラセブン12話で誤った報道をしたことを謝罪した方がいい。
次に、被爆者団体だ。抗議は誰よりも冷静に行うべきだった。苛烈で過激な抗議で相手を萎縮させ、タブー化させた。被爆者団体にすれば、「誤った新聞報道に踊らされた、私たちは被害者だ」と言いたいだろうが、新聞報道を鵜呑みにし、脊髄反射的に「謝罪しる!反省しる!」と叫んでいるだけで思考停止していた責任は大きい。在特会は「被爆者利権」などとおかしなことを叫んでいて、これは論外なので置いておくが、何かを検証せずすぐに差別のレッテルを貼り、思考停止して攻撃していたのは被爆者団体である。お得意の「だがちょっと待って欲しい」と、どうして誰も言わなかったのか。そして、自分たちの抗議が思考停止した、問題のある抗議だったことを、自己批判して総括した方がいい。山岳ベースでキャンプしろとまでは言わないけど。人が死んじゃうし。
そして、円谷プロダクションだ。確かに、あの当時は謝罪して引っ込めるしかなかった。それは仕方がない。だが、そういう作品を「なかったことにする」態度は、果たして制作者として責任ある態度なのだろうか?「ウルトラマン」シリーズで、後世に残る作品と語り継がれているのは、正直、「帰ってきたウルトラマン」の「怪獣使いと少年」までで、それ以降はどうなのだろう。社会的な問題意識を作品に織り込み、世の中に問うていく姿が、円谷プロダクションの矜持ではなかったのか。子どもたちに、子ども騙しではない、本気の作品作りをしてきたから、私たちは円谷プロダクションを支持し、応援してきたのではなかったか。当たり障りのない、「ウルトラマンキッズ」みたいなウルトラマンを私たちは望んできたのか。
確かに、抗議されることは怖い。私自身、今回のこの原稿は波紋を広げそうで、公開していいのか、迷っているところもある。だが、この「ウルトラセブン」12話問題を、自分なりにまとめ、世の中に問いたいと思ったから書いている。
抗議されないような、思考停止した当たり障りのないもの作りで、果たして人の心を揺り動かせるものは作れるのか。私は、作れないと思っている。もし、抗議が来たならば真摯に受け止め、その問題を解決すべく、ともに考えるべきなのだ。(もちろん、タブーは商売になるからという下卑た好奇心や、ふざけて「怪しいお米セシウムさん」みたいなものは許されないとも思う)
「ウルトラセブン」12話は、きわめて日本的な、日本ならではの問題である。それは、1970年当時から、日本社会は思考停止に陥っており、それから40年以上経過して良くなるどころか、どんどん悪化しているという事実が、過去と現在の問題をあぶり出しているとからだ。
「ウルトラセブン」12話は、確かに、作品としてそれほど面白い作品ではない。ただ、その封印に至った経緯と現在までの道筋は、「ウルトラセブン」という作品がシリーズを通して描いた文明批評以上に、鋭く日本社会の暗部を抉り出している。そして、その抉り出した暗部は、禁断の果実とでも言うべき魅力を秘めている。1970年から44年が経過した今も尚、社会の思考停止が悪化し続けていることを、12話「遊星より愛をこめて」はその身をもって証明してくれている。
誤解を恐れずに言えば、「ウルトラセブン」12話は、この日本の社会が変わらない限り、未来永劫公開されることはない。朝日新聞が謝罪することなどあり得ないし、被爆者団体が抗議を撤回することもあり得ない。円谷プロダクションが、クリエイターの誇りをかけて世に問うなんて芸当ができるわけがない。誰も責任を取らない、取りたがらない、一億総無責任社会に生きる私たちには、12話が見たければYouTubeしかない(※)のだ。
※流石に最近はニコニコ動画など、動画サイトの12話も消されるようになってきた。
だからこそ、私は書く。「思考停止ではないのか」「おかしな状況ではないのか」と。
ふと、動画の中の、スペル星人の顔を見つめてみる。切れ上がった目が、怒っているようであり、泣いているようでもある。
監督した実相寺昭雄氏にとって、12話の欠番は、自分の子どもを殺されたような心情だっただろうと推測する。その子どもが甦らぬまま黄泉へ旅立たざるを得なかったことは、実相寺監督にとって、さぞ無念だっただろう。その子どもの仇を取ろうなんて思いはない。ただ、欠番に至る経緯と、今の社会状況を照らし合わせたとき、日本が見えてきた。そして、それを考えることは「たかが子ども番組の欠番」ではなく、より根深い、大きな問題がかくれているように感じるのである。
<あとがきというかお願い>
どうせ「画像の無断転載は禁止です」なんて言ったところで持って行く人は持って行くと思うので、どうぞ持って行ってください。こちとら資料集めるのに使った日にちとお金なんてそんな立派なものではないので、誇る気はありません。むしろ今回の取材で三島由紀夫氏の生首写真が見られたり、いろいろ刺激的でした。(※1970年11月25日に三島事件が発生)
この原稿は、図書館で調べて、メール送って、ちょこちょこっと書いただけで、その気になれば誰だって書ける原稿です。二次引用は褒められたものではありませんが、「それでもやりたい」人は勝手にやると思うので止めません。別に私はウェブサイトのヒット数なんかどうでもいいし、この先もインターネットの端っこでひっそり今時HTMLでサイトを続けたいので、宣伝とか紹介もしなくていいです。通りませんか?そういうの。ただ、画像を使う際、何新聞の何月何日の記事かなど、出典元の日付等は忘れないでほしいのと、コラ素材に使って朝日新聞や毎日新聞の悪行を捏造することだけはやめていただきたい。それでは朝日新聞と同じです。
むしろこんなクソが付くほど長い文章を最後まで読み切ったあなたに心から感謝しています。っていうか、よくぞ読み切ってきた、我が精鋭たちよ!(←谷隊長)
個人的には、この文章を森達也さんに読んでいただけたらこの上ない喜びなのですが、いかんせん森さんの嫌いなマイケル・ムーア監督みたいな手法を使ってるし、自分でも偏ったバイアスがかかっていることは承知の上なので、各方面からの批判には先に謝ります。ごめんなさい。「ウルトラセブン」12話について書く以上、他と違うことを書く必要性があり、自分の言いたいことと、ウェブサイトの読み物として面白さをミックスしたら、こんな鬼子ができちゃいました。こんな文章でも「読んだよ」とTwitterでリプもらえるとどっかの元県議みたいに号泣して喜びますので(嘘つけ!)、感想を教えていただけたらうれしいです。ありがとうございました。